..

文章はまとめて書く方が精神衛生には好ましい

 

今朝

鏡の前で服を脱ごうとしたところ、あばらから腹にかけての肉がごっそり薄くなっていることに気が付いた。

ぞっとして慌てて体重計に乗ると、5日前ほどに測ったときより1キロ以上も痩せていた。

ぞっとして一度電源を切ってから測り直したが数値は変わらなかった。

 

 

ここふた月ほど、「痩せた?」と聞かれることがとにかく多い。

自分でもふと目に入ったときの腕の細さに驚くことがある。

とはいえこれまでが太っていたのだから今くらいが適正より少し細いくらいなのだが。

 

 

ちゃんと食べているのにどうしてだろうと小一時間ほど考えたがすぐに忘れて、

低気圧とPMSらしきものによる精神不調が酷すぎて、折角ESの通った大手会社の一次選考を蹴ったことをぐるぐると悔やみ続けたり、

もうすぐに来るはずで来ない生理のせいで、ちゃんと飲んでいたはずのピルを何かの記憶間違いで飲み違えていないか不安で頭を掻き毟ったり、

それらの気分転換のためにピアノでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「アラベスク第一番」を弾いてみたり、

それでもよくならなかったからこんこんと眠ってみたり、

ツイッターで視界に入ったものに瞬間的に激昂して意味のわからない長文ツイートを垂れ流したり、

気分を落ち着けるために、最近読んでいた三崎亜記の『刻まれない明日』を最後まで一気に読破したり、

しているうちに気が付いたら夕方になっていて、

朝に小さい小さいフルーツタルト、それから何杯かの紅茶を飲んだ以外なにも口にしていないことに気が付いた。

この要領で最近痩せているのかもしれない。

 

 

三崎亜記の『刻まれない明日』は今まで読んだ同氏の小説で一番良かったし、ふとした登場人物の台詞に何度ほろっと泣かされたかわからない。

しかしながら、(おそらく)就職のことに対して今一番くらいに人生で悩んでいる私から見れば、登場人物の誰もがあまりにも自然に自分にぴったり合った誇りのある仕事に就いて生活をしていることがどうしても気にかかって素直に共感することができなかった。

 

とにかく情緒不安定がすぎる。

もう本当に物心ついた頃から私には、不安定なものを精神安定剤のようにする悪癖があり、そのせいでいつまでたってもこんな歳になっても情緒が安定しないのである。

かといって、そもそも安定している何かを見つけることができていればそれをわかっていながら十何年もこんな生き方はしていないはずで、

なんかまあ、あれだ、疲れた。

 

誰かに今すぐ会いたい気もするし、もう一生誰とも言葉を交わしたくない気もする。

全てのものに対して一切の感情を抱くことのない何かとセックスをしたい。

 

 

あ、あと今日は文章を書きたい欲がものすごくて、自己満足用に朝から無駄に純文学チックに最近のどうしようもなさをワードにしたためたのだけど、

これが結構ストレス解消みたいになって良いなああとも思った。

 

文章を綴ることは、その文章に綴られている感情を持っていたり生活をしていたりする自分を第三者化することと同じで、まるで全てを他人事のように感じて面白がることすらできるわけだから、

どうしようもないなんでもないしょうもないことを文章にするのは悪くないなあと思った。

でもツイートはちょっと違う。

ツイートはあまりにも瞬間的で即物的なので、そのツイートをしている間に自分を第三者化することはできない。

勿論あとから読み直すときはそのほかの文章と同じようにできるのだけれど。

 

思えばツイッターをやっていた頃よりも、アメブロだったりmixi日記だったりだけに感情を出していた頃の方が、感情表出の方法としては私に適していたと感じる。

 

だからツイッターをする頻度を減らしてちょいちょいブログにだらだらやっていこうかなあと思った。

 

 

おわり