『リリイ・シュシュのすべて』と16歳の私に寄せて
『リリイ・シュシュのすべて』(2001) 岩井俊二
この映画を初めて見たとき、私はまだ16歳だった。
ライブハウスに足を踏み入れたこともない、片田舎の根暗な高校生。
たった一人だけ、14歳からずっと神様だと信じているバンドマンがいて、毎日毎日彼の歌を聴いていた。
彼の歌や言葉を通じて知り合った顔も名前も知らない人たちとの交流の中で 、
私は初めて、それまでの自分を取り巻いていた歪んだ家庭環境や、それによって生じた自分の歪みについて、誰かに助けを求めることができたし、また同じような人の声に耳を傾けていた。
ヘッドホン越しにしか聴いたことのない彼の歌と、画面上でしか交わされない彼の歌を愛する人たちとの会話が心の支えだった。
この映画に出会ったのは丁度そんな時期。
だから、この映画は私にとって何よりもリアルだった。
ファンサイト「リリフィリア」に寄せられる痛々しい文章の羅列も、
青空の下、綺麗な田園風景の中で確かに感じていたどこにもいけない絶望感も、
繊細な友人の心を知りながら、壊れていくのを見守ることしかできなかった痛みも。
どうしようもなく死にたくて、でも死ねなくて、
たった一つだけ心の底から信じているものがあって、
それは無神経な大人たちに教えるわけにはいかなくて、
それがあったから死ねなかったこと。それだけが救いだったこと。
同じ音楽を好きで、同じ痛みの中にいる人とならきっとわかり合えると確かに信じていられたあの頃の話。
まあ、レイプだなんだのっていうのは流石にリアルではなかったけれど、
でも援助交際をしていた友人は確かにいたし、万引きや喫煙をしていた同級生、
隣のクラスで行われていた全く意味がなくて陰湿だったいじめの標的は友達で、
苗字が変わる子だっていくらでもいたし、
でもそういうものにいちいち心を痛めていたら持たないくらいには、自分だって家庭環境のせいでぼろぼろになっていたわけで
↑このあたりの話は全部映画と同じ、中学生だった頃の話です。
16歳の頃、私はこの映画を狂ったように見ていた記憶があるし、
映画に影響されたおかげで、ドビュッシーのアラベスク第一番だけは未だに弾ける。
今までいい映画は沢山見てきたけれど、人生の中で一本選ぶとしたら、
後にも先にも絶対この映画以外はありえないと思ってこの6年間生きてきた。
その一方で、私はこの6年間ずっとこの映画を避けてきたし、
16歳のときのように自らDVDをレンタルして見るなんてもう考えられなかった。
それは何故かというと、私は16歳で死ねなかったから。
この映画よりも後の、先の人生を何度も何度も重ねてしまったから。
18歳で、私は私の神様が神様ではないことを知ってしまった。
たった一人、本当に神様だと信じていた彼が、実はただの人間だということを。
それから、どんなに好きな音楽が通じている人でも、同じような痛みを抱えている人であっても、決してわかり合えないことを知ってしまった。
Plastic Treeの『理科室』という曲に、「わかりあう事が愛だって聞いた。それが本当ならみんなひとりぼっち。ずっと、ずっと。」って歌詞があるけど、現実はそれですね。
一方でそうした一つ一つのこと、14歳~16歳に信じていたことが壊されていく度に、どんどん生きていくのは楽になった。
まだ大人になったとは到底言えないけれど、もうわざわざ自分の肌に刃物を当てなくても毎日平気な顔でへらへら笑っていられるような人間になったわけで。
極論を言うと、それが生きていくとか、大人になるってことなのかもなって今は思うんですけど、でもそんな自分に対する葛藤も確かにあって。
今までは劇場での公開情報を目にしても何となく遠巻きにしていたのだけれど、
今回だけは絶対に見に行こうと固く誓っていたので、風邪をこじらせていることもおかまいなしに片道二時間かけて見に行きました。早稲田松竹。
並々ならぬ覚悟を持って見に行ったのだけれど、それでも思っていた以上にすんごくしんどくて嬉しかった。
もう、スクリーンに映像が映し出された瞬間から涙が出た。
これだけ有名で問題のある映画だから沢山の人にいろいろ言われている。
「あんな音楽に依存していてはいけない」というコメントを見たことがあって、
勿論それは16歳の私にとって傷つく言葉の一つだったんだけど、22歳の私は、それは違うと断言することができる。
リリイ・シュシュがなくても生きていける14歳は沢山いるけれど、
リリイ・シュシュがいないと生きていけない14歳も確かにいて、私がそうだったし、今でもこの日本のどこかにいるわけです。
私は、自分のことも含めて、生きていくこと、生き延びることが是だとは思っていないから、だからリリイ・シュシュが素晴らしいだなんて言うつもりは全くないけれど。
でも事実として、リリイ・シュシュがいたからこそ今生きている人は、きっと私以外にもいくらでもいる。
(ここでのリリイ・シュシュは各々にとってのリリイ・シュシュであって、そういった意味でリリイ・シュシュが完全に架空のアーティストであったことがこの映画をこの映画たらしめているといえる)
そうして、私はもうリリイ・シュシュがいなくても生きていけるけど、
あの頃、誰からの容赦ない攻撃も受ける以外の対処法がわからなかった頃、
リリイ・シュシュがいてくれたからこそ今の私が存在しているし、
リリイ・シュシュだけをひたすらに信じていた、神様だと思っていた、世界だと思っていた、なければ生きていけなかった16歳の頃のどうしようもなく弱い私を、今でも愛しています。
それを当時の感覚と一緒にまざまざと思い出すことができたので、
本当に今この時期にこの映画を見に行けて、この映画が存在してくれていて本当に良かったと涙ながらに思いました。
ずっと大切です。大切にします。