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それでも世界が続くなら『最低の昨日はきっと死なない』によせて

 

アーティストとファンの適正距離はどこにあるのだろうか。

 

アーティストとファンの間には絶対に越えられない大きな壁がある、

とずっと考えながらCDを買い、ライブハウスに通っていた私にとって、

篠塚さんという存在はとても衝撃的で、未だに心のどこかで受け入れられずにいる。

 

僕と君は同じ人間だ

「伝える」なんて上から目線の言葉もおかしい

こんな音楽を聴きに来ないで自分のやりたいことをやれよ、好きな人に会いにいけよ

 

心から好きだと思える音楽をやっているバンドマンの言葉を、

こんなにも素直に受け止めることができないのは初めてで、篠塚さんが曲の中以外で言葉を発する度に、私はいつもびくびくしてしまう。

そんなものは綺麗事だ、と思ってしまう。

 

けれど、彼の誕生日にリリースされた新しいCDを一日中聴いている今、

疑り深い私は、やっと彼の言葉を素直に受け止められるような気がしている。

 

 

無駄ではないものすら削ぎ落して、極限までにシンプルな音と言葉だけで構成されている『最低な昨日はきっと死なない』は、

今までにそれせかが出したどの音源とも全く異なっている。

曲によってはギターロックというよりアンビエントミュージックのそれだし、

歌詞についても今まであった多少あった文学性すらも取り払われていて、

一発録りの音はとにかく生々しい。

 

何度繰り返して聞いても、極限までにシンプルな音と言葉の中には、

一片の嘘や偽りも感じることができなくて、泣くことすらできない。

 

他のCDと同じように、「アーティストによる創作物」だとは思えなくて、

「自分と同じように人生の虚しさや自分の何も無さに苦しんできた生身の人の声」

としか感じられなくて、とても戸惑っているし、辛くなってしまう。

 

 

アーティストがファンと同じ地平に立つことが良いことだとは、到底思っていない。

アーティストとファンは別次元にいるからこそ、お互いにお互いを守りながらWINWINの関係性を築くことができる、と頑なに信じている。

アーティストとファンの間にある距離は、ヱヴァンゲリオンでいうATフィルターみたいなもので、お互いの言葉や態度によって傷つけ合うことを防いでいる(と、少なくとも私はそう考えてきたし、これからもそう考える)。

 

だから、それでも世界が続くならは、きっと今までも何度も沢山のファンを傷つけてきたはずだし、これからもずっと傷つけていくのだろう。

逆に言えば、この音をヘッドホンで、ライブハウスで聴いて全く傷つかない人には、本当の意味では響かない音楽であるともいえるし、

もしかしたら、逆にファンに傷つけられることすらあるのかもしれない。

 

そんなアーティストとファンのあり方を、私はやはり良いとは思えない。

とても正直に言うと、「私と同じ目線の高さに立とうとするな!!」と思ってしまう。

でもこれはただの自意識過剰ではなくて、私にとってこのバンドやこの音楽が大切で必要で響くものである限り、それらは私と同じ高さに立とうとする。

私でなくとも、このバンドや音楽を必要とする人には誰にでもそうあろうとする。

 

 

このバンドのスタンスは嫌いだけれど、このバンドの存在や、このバンドがつくる音楽や言葉が、今まで生きてきて出会えたものの中でもとにかく大切で、

心を打たれたものであるという事実も死ぬまで変わらない。

 

多くの人の心を真に打つ音楽をつくるアーティストが、ファンと全く同じ地平に立とうとすることは、正解なのか、不正解なのか、よいのか、悪いのか。

そんなことはいくら考えても答えが出ないしわからないけれど、ただ一つ言えるのは、

「聴き手である私と全く同じ場所にいる」と、一人にでも本気で思わせられるだけで、

それでも世界が続くならは特別な価値のあるバンドであるし、

『最低な昨日はきっと死なない』も特別な価値を持つCDである、ということ。

 

 

だから、私は何度でも傷つけられるし、傷つけられることがとても嬉しい。