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平阪昌也という人について

 

 

歌うときの目に宿る暗さだとか、

声全体に帯びている艶やかさとか、

ゆっくりと歩く背中に宿っている重みとか、

縋るように震える手を伸ばして歌う仕草とか、

頭を振り乱しながらギターを掻き鳴らす姿とか、

時折見せるふとした瞬間の笑顔の愛らしさとか。

 

この人はなんなんだろうなあ、と思う。

好きだなあ、と思う。

 

 

昨日(9/2)のライブがとても良かった。

普段の3割増しの格好良さで雨夜の月をやられるともう言うまでもなくて、

ただただ格好良いというだけでなく、何かが憑依しているような神々しさがあった。

 

 

かれこれ、この人を初めて見てから2年が経つらしい。

あほみたいに飽き性ですぐに冷めてしまう私は、

いつもみたいにすぐ飽きてしまうはずだったのだが、2年間はあっという間だった。

 

 

ライブ自体は最近は二回に一回くらいしか行っていないし、

決して熱心な客というわけではない(但しこんなポエム記事を書くくらいには気持ち悪い客ではある)。

 

でもなんとなく、あー私はずっとこうやってゆるくゆるく一生この人のことを好きで居続けるんだろうなあ、という確信よりもすとんと胸に落ちる感覚があって、

それがこの二年間変わらないままあり続けていることが、私にとっては本当にすごいことだ。

 

特に人生に苦しむこともないのに、いつも何かしらで死にたくなっている私にとって、

見に行こうと思えば見に行ける場所で、

この人がライブをしているということだけで、どれだけ救われる気分になったかは、

 

 

あーくそ重いなこの文章。

ただ二年っていう区切りなんで何か今の気持ちを書いておこうかなーと思っただけなんですけどね。

でも本質的には平阪さんに対する気持ちはあまり変わっていない気がする。

 

平阪さん本人には(出禁にならない程度に)気持ち悪いと思われるくらいで丁度いいし、

私はただただ少しだけ遠くから、平阪さんがギター掻き鳴らしながら歌ってる姿を見れれば、それで満足だ。

 

とりあえず、声を好きになることが本当に滅多にないことなので、

純粋にマイクを通した歌声で、心臓の奥の方が冷や水浴びせられたみたいに飛び上がってしまうほど好きな声の歌うたいを見つけることができて幸せだ。

 

 

勿論好きなのは声質だけじゃなくて、

というか、声に宿っている温度や湿度の方なのかもしれない。

平阪さんの声には絶対的に寂しさや哀しさが宿っていて、

纏っている空気にも常にそういうものがあって、

とにかく、私はもうどうしようもないくらいに平阪さんに纏わりついているそれが好きで好きで仕方がない。

寂しさや哀しさから音楽をやっているバンドマンは世の中に沢山いるはずだけど、

寂しいの「さ」や、哀しいの「か」を口にする前に、立ち振る舞いで伝えてしまえるバンドマンは本当にごくごく少ない。

それが本人にとって幸か不幸かは差し置いて、

バンドマンや表現者としてとても価値のある才能であることは確かで。

私は自分自身は何もせずにただ客として見ているだけで、それに触れることが好き。

それに触れると何故だか、自分の心の中にある空洞のようなものが、

黒いけれどあたたかい水のようなもので満たされていっぱいになる。

そうなっているときは自分の寂しさや哀しさは消えているような感じ、

もしくはその水のようなものと同化してよくわからなくなる感じ、になる。

 

 

だから、いつも通りのライブをやったり、

たまに楽しそうにぶっとんでみたり(8/26みたいな)、

何か人ではないものになってみたり(9/2みたいに)、

そんな風にこれからもずっとこの人がステージに立ち続けていたら嬉しいなあ。

それで私はこれからもひと月に一回くらい格好良いこの人を見た後に、

「ひらさかーかっこいいーーーすきーーーーけっこんしろーーーーー」

とか喚きながらぼろぼろ泣いてぐすぐすしていたい。

 

もうすぐ二年ってタイミングでめちゃくちゃかっこいいライブを見た感想でした。

 

おしまい。