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「愛はただの感情で、真実じゃないのよ」

 

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『マリア・ブラウンの結婚』を見た。

 

借りようと思ったら都心の一部のTSUTAYAにVHSでしか置いてないし、

なんかまー正直古臭い映画だろうなーと思って見るのを渋ってたところあったけど、

まあこれが見始めたら面白くて目が離せなかった。

 

記事タイトルは、戦争から還ってこない、帰還が絶望的な夫を信じて待ち続けるマリア・ブラウンに対して、知人の女性が放った一言。

ぐさーっとくる台詞オンパレードの映画の中でも最も印象に残った。

 

極力ネタバレしないように感想書く主義なのでアレなんだけど、

「愛」を懐疑的に考えている人が見たら面白く感じられる映画なのではないかなーと。

 

いつ還ってくるか還ってこないか、きたとしても自分のことを愛しているのかすらわからない夫と暮らすことだけを夢見て努力して、

社会的にどんどんのし上がって病んでいくマリアの姿が滑稽で見ていられない。

 

こんなにも美しくて頭が良くて商才のある女性が、どうしてあの男一人との婚姻関係にここまでこだわるのかは映画内では全く描かれないわけだけど、

たとえ二人の出会いから丁寧に描いたとしても、マリア以外の人間には決して理解できないだろう。し、だからこそ、愛なんだろうということで。

もう本当にもやもやする笑。

 

展開のテンポと台詞の小気味の良さでうまーく誤魔化せているけれど、

ストーリーと登場人物の心情をなぞると、こんな激鬱映画もそうそうあったもんじゃない。

でも今まで見た映画の中で、最もくらいにきちんと人生の本質をついているように感じられて、見終わった後にはおかしくなって声を出して笑ってしまった。

 

人生って本当に空っぽで呆気ない。

どんなに才能のある人も、人間が優しい人も、愛とか性欲とか金に対する欲に振り回されて踊らされて、人相だって変わるしやつれてボロボロになっていく。

そうしてまで掴んだものだって本当に呆気なく消えてしまうし、

そもそも人生自体が、人の命自体がはっと息を呑むほどに呆気ない。

まあ、だからこそただの感情でしかない愛なんてものに縋るしかないのかな、とか。

 

 

古臭い映画だろうな、と思った理由は、1979年制作の映画だからなんだけど、

いい意味で、本当に1979年につくられた映画だとは思えなかった。

当時ではマリアのようにどんどん出世してキャリアを積んでいく女性なんて少なかっただろうに、現代にまで通じる「出来る女性」像がびしっと表現されていたのは気持ちよかった。

そしてその分、その背後関係から見る側に生じる悲哀が増すっていう、ね。。

 

 

レンタルしようとすると、おそらく都心のいくつかのTSUTAYAにVHSくらいでしか置いていない作品だから、見るには少々ハードルが高いんだけれど、

こんな稚拙な文章では全く伝わらないくらい面白くて、考えさせられるシーンも台詞も多い映画だから、映画が好きな人は見たらいいと思う。

 

 

 

 

 

映画を見ることはこの世で一番エネルギーが必要な行為で

 

 

あると、いつもいつも思っている。

 

だから、適当に空いた時間で見るということがどうしてもできない。

映画館に映画を見に行くときは、それがゼミとかの関係で見なければならないよっぽど興味ない映画であるとき以外には、前後にどんな用事があっても、映画を見ることがメインになってしまう。

「映画を見る時間」をわざわざつくらないと、どうしても見ることができない。

 

 

そんなわけで、その中でも特にエネルギーが必要そうな映画は後回しになる。

その最たる例が、私にとっては『愛のむきだし』。

 

30分の短編映画にすら時間とエネルギーが必要なので、トータルで4時間近くもある映画なんてとても見る気にはなれない。

でもすごい映画で、見てよかったなあと思う。

膨大なエネルギーと時間を費やして、映画を見るだけで一日が終わるのも悪くない。

 

 

察している人は察している理由で苦笑、

「愛ってなんだろう」みたいな馬鹿馬鹿しいけど重ったるいことを最近考えるので、

あくまでも解釈の一つだけど、その答えの一つがこの映画の中にはあるかも?と思ったのが、無理矢理に時間をつくって見た理由。

 

4時間近くある映画だし、監督が監督(園子音)だから、この映画の中で描かれてる「愛」も、人それぞれ本当に解釈が違うんだろうけど。

 

 

相手を自分の世界に引きずり込むためにはどんな苦労も手段も犠牲も厭わない

 

ことが愛なのかな、と。

 

だからきっとものすごく歪んでいるけれど、コイケさんのそれも愛で、

愛以外の何物でもなくって。

私は正直あんなに一人を思い続けられるコイケさんが羨ましい笑。

その観点からいくと、私は本当に今まで誰ひとりとして愛せたことがないなーとか。

 

 

新興宗教というのも映画のテーマとしてあったけれど、

新興宗教は怖いとか、洗脳の手順はどうだとか、そんなちゃっちいことは、この映画の中ではどうでもいいこと。

 

誰がどう見てもまともな世界なんてものは存在するはずがなくて、

だからこそ、自分がどの世界を信じるか?ということが一番大切。

誰のつくった世界を信じるか?

誰に自分のいる世界を信じてもらいたいか?来てもらいたいか?

そんな象徴として、新興宗教団体が大きく取り上げられていたのだと思う。

 

 

最近は割と映画では当たりを引くことが多くて、

人以上に映画を見ることにエネルギーのいる映画好きとしては、

なんとか限られたエネルギーで自分にとって大切だと思える映画を見れたらいいな。

 

大切な映画が一つ増えて良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015/09/06 それでも世界が続くなら主催サーキットフェス 「反撃フェスティバルの心の準備の日」@吉祥寺 Planet K  前編

 

 

 

17時40分頃に着くともう会場内には沢山の人が。

ライブハウスの入り口やフロア、スペースがある場所のどこにでも展示作品がある光景は、今まで見たどのライブハウスの光景とも違って不思議でした。

 

 

 

オオタ13月

 

この人のつくる曲たちは寂しがり屋だ。

 

私は弾き語りを見るということがとても苦手なのだけど、この人はやっぱり苦手ではない。みみフェス以来2回目。

言葉とかメロディーが妙に鼓膜に焼き付いて離れないのは、上っ面をなぞるだけの綺麗で着飾った言葉じゃなく、文面がいくら綺麗でもその背後に人間の人間らしい醜さや傲慢さや弱さが滲み出ているから。

 

それで私は少し苦手意識があるのだけど、寂しくなったときにふっと何の気なしに頭に流れてくるのはこの人の歌なので、ただ単に自分にとって痛い部分があるものを避けたいだけなのかもしれない。

 

 

「人に見てもらえる機会というものが無くて。

僕はいじめられてたわけでもないし、いじめてたつもりもないんですけど、教室の隅にいて、いてもいなくてもいいような存在でした。

その反動なのか、すごく自己顕示欲が強くて。僕を見てくれない人に対して、何で僕を見てくれないの?僕を見てくれないなんておかしいんじゃないの?って思ったり。

今思うと、あの人が僕を見てくれないのは僕を見たくないからで、それにどうこう言うのは逆恨みでしかないんですよね。見てもらいたいなら、見てもらえるような僕にならなきゃいけない」

 

と、盲目のアリス前に言っていたのを聞いて、この人はなんて素直な人なんだろう!と笑。

 

バンドマンなんて自己顕示欲の塊ばかりなのに(それが悪いとかではなく)、涼しげな顔して、さも自分はそうではないって顔してる人が多すぎる。

その点この人は本当に自分や音楽に対して正直なんだなあというのと、

言ってることも最もすぎて(勘違いしてるバンドマンにこそ聞いて欲しい言葉だった)、とても好感を抱きました。

 

オオタさんにとっての反撃は、「ロックと非常識をはき違えている人に、それはロックじゃないよと教えてあげること」だそうです。

最後にやった銀の首飾りが良かった。

 

セットリスト

ラビットハット / 曖昧なディア /  世界の終わりと夜明け前 / 盲目のアリス / 銀の首飾り

 

 

 

ネクラポップ

 

「すべてのネクラポップたちへ」

人の優しさや温もりを拒絶する孤独で切実な音楽。

 

孤独といってもオオタさんの曲にあるような寂しさとは全く異なるもので、

オオタさんの曲は寂しさ故に人とめんどくさいことになってしまう人間らしさがあるものだけれど、ネクラポップの孤独は、孤独を孤独としてしっかり受け止めて割り切っている、というか。一種の諦めの境地に達している。 

 

ステージに現れた人はぱっと見、あまりバンドマンには見えない普通のおじさんなのだけれど、ギターを持って歌い出した瞬間にガラっと印象が様変わりして、

往年のロックスターの弾き語りのような風格と音が出てくるので、音だしのときにびっくりしてしまった。

 

「ねえ先生」って始まる曲がすっごく良かった。

最後の走馬灯のような10分間。心地よいギターのノイズの中に紡がれる言葉がただただ痛くて辛かった。

 

 

 

 

KOZUMI

 

熱くてヒリヒリしていて前のめりなエネルギーの塊。真っ赤。

 

だけど決して明るいわけではなくて、身体の中に積もり積もってしまったどうしようもない気持ちが破裂して、決壊した結果がそのまま音楽になってしまったようなバンド。

 

予備知識ゼロのバンドのライブにここまで泣かされたのっていつぶりだろう。

 

「反撃フェス!!後半戦!!KOZUMIです!!」

一瞬耳にしただけで胸がばーっとざわつくような轟音の中、フロアに叫びかける声。

 

”そうだ、私はこういうものを見たくて生きてたんだった!” ということを、うん年ぶりに無理やり引きずり出されて叩き起こされたような衝撃があった。

 

ロックに「エモ」なんて分類があるけれど、真にエモーショナルなバンド。

これは本当にライブ見ないとわからないと思うし、知り合いとか友達の音楽が好きな人たちにすごくすごく見てほしすぎる。

 

「僕たちみたいな人間は、普通の社会人の方が通勤されるときに駅とは違う方向に帰ることなんかもよくあるんですが、白い目で見られるわけですよ。

でも、思っていることがひとつあって、朝は誰にでも平等にやってきます。

人それぞれ苦しいこととか辛いこととかがあって、でも誰にも平等に明日は来ます。

こういう、僕たちみたいな人間にも朝は来ます。

苦しいことがあった日でも、楽しいことがあった日でも平等に明日はやってきます。

だから、辛いことがあったときはまた来てほしい。

俺たちは諦めないでここで頑張るから、また来てください!」

 

文面にすると、バンドマンがよく言う台詞にしか見えないけれど、

実際立ち会ったときの言葉の力強さと説得力が半端なくて、ああこの人はライブを良く〆るためだとか、なんとなく良い言葉を言おうとして言っているのではなくて、

本気でこう思っていて、今これをフロアにいるわたしたちに伝えたくて叫んでいるんだと絶対的に思えたことが本当に大きかった。

 

目の前にある音楽と言葉を、頭で考える前に素直に信じられてしまうということ。

 

その後にやってた「廻る朝」という曲が本当に、どの曲も良かったのだけど一番良くてぼっろぼろに泣いてしまった。

 

同世代の人たちとは思えないほどパワフルでしっかりした演奏だったと同時に、

若くて青臭くて下手に磨かれていないからこそできる荒削りな音楽がそこにはあって、

「今しか生きられない僕らだから」という歌詞が本当にぴったりのバンドだった。

 

音楽を聴き慣れていたり、ライブハウスによく足を運んでいたりする人は、知らないバンドの音を聴いたらまず、「好き」「好きじゃない」で判断する。私も例外ではない。

 でも、「なにこれ?!」という衝撃が先に来て、好きとか嫌いとかそんなことを考える余裕もないままライブが終わってしまった。

 

ただ今この瞬間聴いている音を聴くこと、ステージに立つ演者のアグレッシブな姿を見ることだけに否応なしに全神経を注がされる。

 

ドラムの女の子さんが、ものすごくエネルギッシュなドラムを髪の毛振り乱しながら、

時には心から楽しそうに、時にはなんだか辛そうに叩いてる姿が目にとても印象的に残った。

 

自分にとって反撃とは、ということを語るバンドがこの日はいくつかあったけれど、

KOZUMIにとってはステージに立って音を鳴らすことが反撃なのだろう。

 

私はこういう人たちになりたかった。でもなれなくて、だから憧れていて、

こういう人たちを見たときに、熱や痛みが伝染するように心臓の奥の方が痛くなってしまう現象がただただ好きで、それだけでライブハウスに未だに通い続けているということ、そういうものを見たいというだけで今まで生きてきたということ、

 

ちゃんと無理やり思い出させてくれるバンドに出会えて本当に良かった。

 

CDを買ったときに口ベタが災いして、「今日本当に良かったです」と伝えられなかったので、その代わりに、もしエゴサしてたら読んでいてもらいたいです笑。

 

このバンドに出会えただけで、反撃フェスに行って心から良かったと思いました。

出会わせてくれた全ての縁にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

新興宗教を立ち上げたい話(信じられるもの論)

 

 

なんやかんやいっても、人を最終的に救うのはパンじゃなくて神様だ。

命を繋ぐということと心が救われるということは対極にあるのだから。

 

人の役に立てる仕事だから、と志望動機を書いたり、

苦しんでる人の助けになりたいといってボランティアしたりする人いるけど、

お前自分のことどんだけたいそうな人間だと思ってるんや、って話である。

 

というか、そんな即物的な行動に出るくらいなら、

説得力のある言語能力と、優秀なプロデューサー兼マネージャーを従えて悪徳すぎない新興宗教をつくる方がよっぽど生きとし生ける人の役に立てるはずだ。

だって仕事のできる人や慈善精神に満ち満ちている人なんて現実世界にはいくらでもいて、それでも世界はこんなもんなのだから。

それに対して、金や権力に執着しない綻びのない「神様」は本当に少ない。

もしかしたら私の知らないところにいるのかもしれないけれど、だとしたらさっさと教えてもらいたいもの。

 

 

というわけで、私の中に再びふつふつと新興宗教団体を立ち上げたい欲が沸いてきた。

まあどうせ明日にはどうでもよくなっているのだろうけど。

とはいえ、自分がそんな神様になれるとは到底思っていないしなりたくもない。

私はプロデューサー的な役割か、所謂「預言者」的なポジションを希求している。

 

それから、私は人間を神様に据えることはないだろう。

生きている本物の神様がこの世にほぼほぼいないのは、それが人間になしえる役割ではないということだ。

でも、偶像崇拝も好きじゃない。

形のないものを無理やり型に嵌めてありがたがるなんてセンスが無さすぎる。

(この理由で、私は宗教にはまりたかったけどはまることができなかった)

 

だったら何を神様にするか?ということが早急の問題。

神様は、信じた人を絶対に裏切ることがなく、信じる人が望むときに立ち現われ、心を救ってくれるものでなければならない。

この三つの条件が達成されないのなら、そもそもそれは神様とはいえないし、神様である必要もない。

 

で、真剣にこの三つを満たすものを考えた結果、

瞬間的な快楽以外にはありえないという結論が出た。

だから、ほんの一時の享楽だけを信じて崇拝して追求するような新興宗教団体を立ち上げたい。

世俗的な価値とか、金や権力、仕事におけるやりがい、家族や恋人の存在などなど、

そんな、得るまでにえらい苦労と時間を要するのに、簡単なことであっという間に崩れてしまうようなものを信じようとするから生きるのが辛くなるわけで。

新興宗教団体であるところの爾雷教は、そんなものが一切の意味を持たない場所にしたい。

各々が各々にとっての瞬間的な快楽を神様として、その崇拝の為にだけは努力を惜しまない。

たとえばセックスに神を感じたり、ドラッグに神を感じたり、はたまたステージに立って多くの人に見られることに神を感じたり。

まあそれは本当に人それぞれだと思うのだけれど、

それだけが絶対的なもので、それだけが信じられるもので、

社会的な地位とか常識とか倫理観とか他人からの目とか法律とか健康とか、そういうものを本当に一切排した世界観で生きることができるなら、

人間はこれ以上になく幸せになることができるはず。

 

 

勿論現実問題として、そこまで法律から違反したり非倫理的な活動をいつまでも続けていられるはずがないので、理想を突き詰めると団体として成立しなくなってしまう。

だから、現実にこんな新興宗教団体をつくることができたなら、隠れキリシタンの踏み絵みたいな感じになってしまうかもしれない。

心の中では強くそれだけを信じているけれど、あくまでも世間のスタンダードから外れていないことを振る舞って生きていく。

でもそれも、信じられるものが確固たるものであれば悪くないかなあとも思う。

 

とにかく、無駄に不確かなものを信じることをやめたいね。

絶対的に自分が信じられるものだけを信じて生きていきたいね。

というわけで、このコンセプトに共感してくれる誰か、私と新興宗教団体を立ち上げよう。

 

 

 

以上、

本日のデトックスでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

平阪昌也という人について

 

 

歌うときの目に宿る暗さだとか、

声全体に帯びている艶やかさとか、

ゆっくりと歩く背中に宿っている重みとか、

縋るように震える手を伸ばして歌う仕草とか、

頭を振り乱しながらギターを掻き鳴らす姿とか、

時折見せるふとした瞬間の笑顔の愛らしさとか。

 

この人はなんなんだろうなあ、と思う。

好きだなあ、と思う。

 

 

昨日(9/2)のライブがとても良かった。

普段の3割増しの格好良さで雨夜の月をやられるともう言うまでもなくて、

ただただ格好良いというだけでなく、何かが憑依しているような神々しさがあった。

 

 

かれこれ、この人を初めて見てから2年が経つらしい。

あほみたいに飽き性ですぐに冷めてしまう私は、

いつもみたいにすぐ飽きてしまうはずだったのだが、2年間はあっという間だった。

 

 

ライブ自体は最近は二回に一回くらいしか行っていないし、

決して熱心な客というわけではない(但しこんなポエム記事を書くくらいには気持ち悪い客ではある)。

 

でもなんとなく、あー私はずっとこうやってゆるくゆるく一生この人のことを好きで居続けるんだろうなあ、という確信よりもすとんと胸に落ちる感覚があって、

それがこの二年間変わらないままあり続けていることが、私にとっては本当にすごいことだ。

 

特に人生に苦しむこともないのに、いつも何かしらで死にたくなっている私にとって、

見に行こうと思えば見に行ける場所で、

この人がライブをしているということだけで、どれだけ救われる気分になったかは、

 

 

あーくそ重いなこの文章。

ただ二年っていう区切りなんで何か今の気持ちを書いておこうかなーと思っただけなんですけどね。

でも本質的には平阪さんに対する気持ちはあまり変わっていない気がする。

 

平阪さん本人には(出禁にならない程度に)気持ち悪いと思われるくらいで丁度いいし、

私はただただ少しだけ遠くから、平阪さんがギター掻き鳴らしながら歌ってる姿を見れれば、それで満足だ。

 

とりあえず、声を好きになることが本当に滅多にないことなので、

純粋にマイクを通した歌声で、心臓の奥の方が冷や水浴びせられたみたいに飛び上がってしまうほど好きな声の歌うたいを見つけることができて幸せだ。

 

 

勿論好きなのは声質だけじゃなくて、

というか、声に宿っている温度や湿度の方なのかもしれない。

平阪さんの声には絶対的に寂しさや哀しさが宿っていて、

纏っている空気にも常にそういうものがあって、

とにかく、私はもうどうしようもないくらいに平阪さんに纏わりついているそれが好きで好きで仕方がない。

寂しさや哀しさから音楽をやっているバンドマンは世の中に沢山いるはずだけど、

寂しいの「さ」や、哀しいの「か」を口にする前に、立ち振る舞いで伝えてしまえるバンドマンは本当にごくごく少ない。

それが本人にとって幸か不幸かは差し置いて、

バンドマンや表現者としてとても価値のある才能であることは確かで。

私は自分自身は何もせずにただ客として見ているだけで、それに触れることが好き。

それに触れると何故だか、自分の心の中にある空洞のようなものが、

黒いけれどあたたかい水のようなもので満たされていっぱいになる。

そうなっているときは自分の寂しさや哀しさは消えているような感じ、

もしくはその水のようなものと同化してよくわからなくなる感じ、になる。

 

 

だから、いつも通りのライブをやったり、

たまに楽しそうにぶっとんでみたり(8/26みたいな)、

何か人ではないものになってみたり(9/2みたいに)、

そんな風にこれからもずっとこの人がステージに立ち続けていたら嬉しいなあ。

それで私はこれからもひと月に一回くらい格好良いこの人を見た後に、

「ひらさかーかっこいいーーーすきーーーーけっこんしろーーーーー」

とか喚きながらぼろぼろ泣いてぐすぐすしていたい。

 

もうすぐ二年ってタイミングでめちゃくちゃかっこいいライブを見た感想でした。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

セックスできるお兄ちゃんがほしい話

 

 

セックスできるお兄ちゃんがほしい。

私を救ってくれる人がいるとしたら、セックスできるお兄ちゃん以外にありえない。

もうネタじゃなくて、一昨日くらいから本当に大真面目に考えている。

 

私はおそらく女性としてはそこまでセックスを好きなわけでも嫌いなわけでもないんだろうけど、もうたまにどうしようもないくらいしたくなるときがある。

それは単にセックスが、子孫繁栄のための手段とか、性欲解消の手段とか、そういう即物的な手段なだけではなくて、

赤の他人を受け入れたり赤の他人に受け入れてもらったりすることの象徴的な側面があるからなのかもしれない。

 

勿論今の世の中、ゆきずりの人と誰とでもする人は後を絶たないし、

性産業だってめちゃくちゃに栄えていて、セックスは決して愛とか恋とかいう煩わしい感情と結びついているわけではない。

でもそれでもやっぱり寂しがりのメンヘラにはクソビッチが多いし、やっぱり人の一番弱いところのメンタリズムと深い関わりがある行為であることは確かだと思う。

 

 

まあそんなことはぶっちゃけどうでもいいんだけど、

セックスできるお兄ちゃんがほしい。

もっと正確に言うと、セックスさせてくれるお兄ちゃんがほしいのかもしれない。

 

ああもうこんなにセックスセックスって言ってると尻軽女に思われるかもしれないけど、私は本当ビッチでもなんでもないですからねまじで。

こんな文章をインターネット上に公開しないと頭がどうにかなりそうなくらい、

ただただ純粋にセックスできるお兄ちゃんがほしい。

もうどこまでも真っさらで真っ直ぐな純情でしかない。

セックスできるお兄ちゃんがほしい。

 

要するに、ただただ人肌に甘えたいんだと思う。

でもあんまりそういう発想になるとまじで泣きそうになるから、

その泣きそうになるのを一番誤魔化せる言葉とか概念が「セックス」なんだと思う。

 

ただただ甘えるだけだったら甘えさせてもらうだけで終わっちゃうんだけど、セックスって、本来はただただ甘えるしか能のない女が唯一、甘えさせてくれる存在に貢献できる手段だと思うんですよ。

ブスでもデブでも貧乏人でも頭が弱くても料理ができなくても部屋がゴミ溜めでも、

とにかくそういうどうしようもない感じの人間であってもセックスだけはできるわけ。

 

なんかこのまだ1000文字いってない文字の中で何回セックスって言ったんだろ。

 

もうとにかく精神的に絶対的に自分より年上で、

お互いに恋だの愛だのーって紛らわしい関係とか一切抜きにして、

お互いに期待とか失望とかしなくて、

結果的にお互いに相手を裏切ることになるようなことが起こる必要性がなくて、

そういう関係の人にただただ頭撫でられて日常的に添い寝して、

その流れでセックスして、って感じの関係になりたいわけですよ。

それはつまりセックスのできるお兄ちゃんである。

 

セックスできるお兄ちゃんがほしい。

 

なんかもうさっき30分以内くらいに立て続けて面接のお祈りメール入ったし、

明日から3日連続面接なんだけど、

なんかもうそういうことを考えれば考えるほど、

セックスできるお兄ちゃんがほしいという発想にしか結びつかない。

 

なんかもうセックスできるお兄ちゃんがほしいよ!!!

そういえば今朝体重計に乗ってみたらまたわけもなく0.6キロくらい減ってたけど、

ここ最近の反動なのか今日は食欲がやばくてばか食いしてるから、

明日体重計に乗ってたら絶対太ってると思う。

セックスしたい。セックスできるお兄ちゃんがほしい。

 

というわけで私はセックスできるお兄ちゃんを大歓迎熱烈募集しています。

みんなよろしくな!!!!!!!

 

 

~完~

 

 

 

文章はまとめて書く方が精神衛生には好ましい

 

今朝

鏡の前で服を脱ごうとしたところ、あばらから腹にかけての肉がごっそり薄くなっていることに気が付いた。

ぞっとして慌てて体重計に乗ると、5日前ほどに測ったときより1キロ以上も痩せていた。

ぞっとして一度電源を切ってから測り直したが数値は変わらなかった。

 

 

ここふた月ほど、「痩せた?」と聞かれることがとにかく多い。

自分でもふと目に入ったときの腕の細さに驚くことがある。

とはいえこれまでが太っていたのだから今くらいが適正より少し細いくらいなのだが。

 

 

ちゃんと食べているのにどうしてだろうと小一時間ほど考えたがすぐに忘れて、

低気圧とPMSらしきものによる精神不調が酷すぎて、折角ESの通った大手会社の一次選考を蹴ったことをぐるぐると悔やみ続けたり、

もうすぐに来るはずで来ない生理のせいで、ちゃんと飲んでいたはずのピルを何かの記憶間違いで飲み違えていないか不安で頭を掻き毟ったり、

それらの気分転換のためにピアノでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「アラベスク第一番」を弾いてみたり、

それでもよくならなかったからこんこんと眠ってみたり、

ツイッターで視界に入ったものに瞬間的に激昂して意味のわからない長文ツイートを垂れ流したり、

気分を落ち着けるために、最近読んでいた三崎亜記の『刻まれない明日』を最後まで一気に読破したり、

しているうちに気が付いたら夕方になっていて、

朝に小さい小さいフルーツタルト、それから何杯かの紅茶を飲んだ以外なにも口にしていないことに気が付いた。

この要領で最近痩せているのかもしれない。

 

 

三崎亜記の『刻まれない明日』は今まで読んだ同氏の小説で一番良かったし、ふとした登場人物の台詞に何度ほろっと泣かされたかわからない。

しかしながら、(おそらく)就職のことに対して今一番くらいに人生で悩んでいる私から見れば、登場人物の誰もがあまりにも自然に自分にぴったり合った誇りのある仕事に就いて生活をしていることがどうしても気にかかって素直に共感することができなかった。

 

とにかく情緒不安定がすぎる。

もう本当に物心ついた頃から私には、不安定なものを精神安定剤のようにする悪癖があり、そのせいでいつまでたってもこんな歳になっても情緒が安定しないのである。

かといって、そもそも安定している何かを見つけることができていればそれをわかっていながら十何年もこんな生き方はしていないはずで、

なんかまあ、あれだ、疲れた。

 

誰かに今すぐ会いたい気もするし、もう一生誰とも言葉を交わしたくない気もする。

全てのものに対して一切の感情を抱くことのない何かとセックスをしたい。

 

 

あ、あと今日は文章を書きたい欲がものすごくて、自己満足用に朝から無駄に純文学チックに最近のどうしようもなさをワードにしたためたのだけど、

これが結構ストレス解消みたいになって良いなああとも思った。

 

文章を綴ることは、その文章に綴られている感情を持っていたり生活をしていたりする自分を第三者化することと同じで、まるで全てを他人事のように感じて面白がることすらできるわけだから、

どうしようもないなんでもないしょうもないことを文章にするのは悪くないなあと思った。

でもツイートはちょっと違う。

ツイートはあまりにも瞬間的で即物的なので、そのツイートをしている間に自分を第三者化することはできない。

勿論あとから読み直すときはそのほかの文章と同じようにできるのだけれど。

 

思えばツイッターをやっていた頃よりも、アメブロだったりmixi日記だったりだけに感情を出していた頃の方が、感情表出の方法としては私に適していたと感じる。

 

だからツイッターをする頻度を減らしてちょいちょいブログにだらだらやっていこうかなあと思った。

 

 

おわり