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風俗に堕ちて貢がされることも厭わないほど誰かに溺れて、そして野垂れ死にたい

 

馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないけど、これは私の夢だった。

どうしようもないホストやバンドマンを好きになって、身体をとことん売りつくして、そしてどうしようもなくなって死んでいく人たちのことが羨ましかった。

 

いつからかわからないけど高校生のときからずっと夢見ていたこと。

今だからこそわかるのだけれど、これが夢だったということは、私はその時点で、自分が誰かを心から愛することができない人間だと気付いていたのだろう。

 

夢「だった」のは、もう私にはそんなことは一生出来ないと諦めがついたから。

というのは嘘で、本当は今でもずっと密かに願っている。

 

誰かを愛する、という感覚がこの歳になっても未だにわからない。

 

私は私にとって都合がよく、私が魅力的に感じる何かを持っており、私が欲しいものを必ずくれる人しか本当に好きになることができないし、運良くそういう人が現れたときにも、少しそれが崩れるだけで、あっという間に崩れ去ってしまう。

これが、人そのものではなく、人が持つ何かしらの要素しか愛せないことの何よりの証明で、それに気付いたとき哀しくて死んでしまいそうなくらい泣いた。

 

ステージの上のバンドマン、の姿はおおかた完璧だろう。

好きなバンドマンならその瞬間だけは愛することができる。

だけどそれはあくまでもステージの上のその瞬間だけの話であって、その裏の姿まですべてを知ってしまったら到底愛することは私にはできないだろう。

そういう意味では、本質的には誰もが同じ。

 

この人だけは全てが好きだから愛することができる、と思った人が、ただ私の気を惹くために完璧な理想像を演じてくれてただけだと知ったときは、ただ哀しくて情けなくてどうしようもなくて三日三晩じゃ足りないくらい泣いても涙にもなりきらなかった。

 

人を本当に愛するということは、この世で一番難しいことだと思う。

それができれば私は救われるのかもしれないし、音楽も、小説も、なにもいらなくなるのかもしれない。

 

そんなことをずっと夢に見ながら、きっと歪んだ自己愛だけを抱きしめて孤独死するんだろうなと、そんな覚悟がようやく最近つきました。

 

 

記事タイトルと最後の文章だけが言いたかった。おしまい。

 

 

 

 

 

 

『リリイ・シュシュのすべて』と16歳の私に寄せて

 

リリイ・シュシュのすべて』(2001) 岩井俊二

 

この映画を初めて見たとき、私はまだ16歳だった。

ライブハウスに足を踏み入れたこともない、片田舎の根暗な高校生。

たった一人だけ、14歳からずっと神様だと信じているバンドマンがいて、毎日毎日彼の歌を聴いていた。

彼の歌や言葉を通じて知り合った顔も名前も知らない人たちとの交流の中で 、

私は初めて、それまでの自分を取り巻いていた歪んだ家庭環境や、それによって生じた自分の歪みについて、誰かに助けを求めることができたし、また同じような人の声に耳を傾けていた。

ヘッドホン越しにしか聴いたことのない彼の歌と、画面上でしか交わされない彼の歌を愛する人たちとの会話が心の支えだった。

 

この映画に出会ったのは丁度そんな時期。

だから、この映画は私にとって何よりもリアルだった。

 

ファンサイト「リリフィリア」に寄せられる痛々しい文章の羅列も、

青空の下、綺麗な田園風景の中で確かに感じていたどこにもいけない絶望感も、

繊細な友人の心を知りながら、壊れていくのを見守ることしかできなかった痛みも。

どうしようもなく死にたくて、でも死ねなくて、

たった一つだけ心の底から信じているものがあって、

それは無神経な大人たちに教えるわけにはいかなくて、

それがあったから死ねなかったこと。それだけが救いだったこと。

同じ音楽を好きで、同じ痛みの中にいる人とならきっとわかり合えると確かに信じていられたあの頃の話。

 

まあ、レイプだなんだのっていうのは流石にリアルではなかったけれど、

でも援助交際をしていた友人は確かにいたし、万引きや喫煙をしていた同級生、

隣のクラスで行われていた全く意味がなくて陰湿だったいじめの標的は友達で、

苗字が変わる子だっていくらでもいたし、

でもそういうものにいちいち心を痛めていたら持たないくらいには、自分だって家庭環境のせいでぼろぼろになっていたわけで

↑このあたりの話は全部映画と同じ、中学生だった頃の話です。

 

16歳の頃、私はこの映画を狂ったように見ていた記憶があるし、

映画に影響されたおかげで、ドビュッシーアラベスク第一番だけは未だに弾ける。

 

今までいい映画は沢山見てきたけれど、人生の中で一本選ぶとしたら、

後にも先にも絶対この映画以外はありえないと思ってこの6年間生きてきた。

その一方で、私はこの6年間ずっとこの映画を避けてきたし、

16歳のときのように自らDVDをレンタルして見るなんてもう考えられなかった。

 

それは何故かというと、私は16歳で死ねなかったから。

この映画よりも後の、先の人生を何度も何度も重ねてしまったから。

18歳で、私は私の神様が神様ではないことを知ってしまった。

たった一人、本当に神様だと信じていた彼が、実はただの人間だということを。

それから、どんなに好きな音楽が通じている人でも、同じような痛みを抱えている人であっても、決してわかり合えないことを知ってしまった。

Plastic Treeの『理科室』という曲に、「わかりあう事が愛だって聞いた。それが本当ならみんなひとりぼっち。ずっと、ずっと。」って歌詞があるけど、現実はそれですね。

 

一方でそうした一つ一つのこと、14歳~16歳に信じていたことが壊されていく度に、どんどん生きていくのは楽になった。

まだ大人になったとは到底言えないけれど、もうわざわざ自分の肌に刃物を当てなくても毎日平気な顔でへらへら笑っていられるような人間になったわけで。

極論を言うと、それが生きていくとか、大人になるってことなのかもなって今は思うんですけど、でもそんな自分に対する葛藤も確かにあって。

 

今までは劇場での公開情報を目にしても何となく遠巻きにしていたのだけれど、

今回だけは絶対に見に行こうと固く誓っていたので、風邪をこじらせていることもおかまいなしに片道二時間かけて見に行きました。早稲田松竹

並々ならぬ覚悟を持って見に行ったのだけれど、それでも思っていた以上にすんごくしんどくて嬉しかった。

もう、スクリーンに映像が映し出された瞬間から涙が出た。

 

 

これだけ有名で問題のある映画だから沢山の人にいろいろ言われている。

「あんな音楽に依存していてはいけない」というコメントを見たことがあって、

勿論それは16歳の私にとって傷つく言葉の一つだったんだけど、22歳の私は、それは違うと断言することができる。

リリイ・シュシュがなくても生きていける14歳は沢山いるけれど、

リリイ・シュシュがいないと生きていけない14歳も確かにいて、私がそうだったし、今でもこの日本のどこかにいるわけです。

私は、自分のことも含めて、生きていくこと、生き延びることが是だとは思っていないから、だからリリイ・シュシュが素晴らしいだなんて言うつもりは全くないけれど。

でも事実として、リリイ・シュシュがいたからこそ今生きている人は、きっと私以外にもいくらでもいる。

(ここでのリリイ・シュシュは各々にとってのリリイ・シュシュであって、そういった意味でリリイ・シュシュが完全に架空のアーティストであったことがこの映画をこの映画たらしめているといえる)

 

そうして、私はもうリリイ・シュシュがいなくても生きていけるけど、

あの頃、誰からの容赦ない攻撃も受ける以外の対処法がわからなかった頃、

リリイ・シュシュがいてくれたからこそ今の私が存在しているし、

リリイ・シュシュだけをひたすらに信じていた、神様だと思っていた、世界だと思っていた、なければ生きていけなかった16歳の頃のどうしようもなく弱い私を、今でも愛しています。

 

それを当時の感覚と一緒にまざまざと思い出すことができたので、

本当に今この時期にこの映画を見に行けて、この映画が存在してくれていて本当に良かったと涙ながらに思いました。

 

ずっと大切です。大切にします。

 

 

 

 

 

別に、誰かに飼われてるわけじゃないし

 

自分のベースの音くらいは自分でつくれます。

 

って、もっと早く言えば良かったのかもしれないですね。

 

ある人に、「その首輪は誰につけられてるの?」って聞かれて、「自分でつけてます」と答えました。

その人じゃないけど、勘違いしてた人が他にいるので言うと、

私は自分の為だけにベースを弾いてきました。

自分が始めたくてベースを始めました。

自分で、この子がいいなって思ってあのワーロックの彼女を選びました。

勿論、本当に100%それだけかって聞かれたら違うかもしれないですけど、

結果としてこうなったことは、多分良かったんだと思います。私にとって。

 

 

直近のライブの振り返り。

 

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バンドとして今までで一番良くないライブだったと思う。純粋に。

ただワンすさんのギターはやっぱりエモくてすごく好きです。

短い間でしたがこのバンドでベースを弾けて良かったです。

単純に、音楽とか好きだし、格好良いと思ってるし、ありがとうございました。

 

 

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どのような理由であれ、参加できてとても光栄でした。嬉しかったです。

一晩とはいえ、すごい人たちと一緒にライブをさせてもらったこと。

多分ずっと忘れないし、スマパンも聴いていくだろうと思います。

ゴトウさんは勿論、なんだか皆さんあたたかくていい夜だと思いました。

「いい音」って何人の方にも言っていただけてすごく嬉しかったです。

自分の未熟さに反吐が出たけど、ライブもすごく楽しかったです。

すごく個人的には、すごくいろいろなことを考えさせられたというか、本当に、今までは気付くことのできなかった発見が沢山ありました。

本当にありがとうございました。

 

 

多分、今までもいろいろなことを思っていたのだけど、

それを上手く言語化することが出来なかったし、言語化することで壊れてしまうのが怖かったんだろうなって。

おどおどしてたしびくびくしてたし、

自分は本当にここにいていい人間なんだろうかって考えてたけど、

そういうのはもうやめます。

 

特定の誰かにじゃなくて、もう自分以外に捨てられるの嫌だし、

何がどう出来る人間じゃないけど、私の頭の中にも勝手に音楽は流れてるし、

こういうものをこういう音楽にしたいって形はあるので、

とりあえず、自分のために自分の音楽をつくります。

つくる、というか、今まで頭の中で勝手に流れていたものを放置しないで、

ちゃんと形にして記憶媒体に残します。

すごく時間かかるかもしれないし、もしかしたら途中で挫折するかもしれないし、

いろいろ勉強するところから始めないといけないからきっと大変だけど、

これは私の人生にとって、とても大切なことだと思うし、

人生の目標とかやりたいこととか本当にもうそれくらいしかないから、します。

何年かかっても、誰にも愛されなくても、私のためだけにします。

 

 

以上、近況報告と決意表明みたいなものでした。

 

言葉にしない方がいい言葉もあったかもしれないけど、

私は言葉にとても左右される人間だし、

他にも勘違いしている人がいそうだし、何も言わないで勘違いさせておくのは嫌だし、

とりあえずブログには残した方がいいと思ったので。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

音楽は耳を塞ぐための手段

 

個人的な話。

シューゲイザーに準ずる音楽やバンドが好きだけど、

音のうるさい空間は昔からとても嫌いだった。人が多いところとか。祭とか。

 

人の声とか、物音とか、聞きたくない音があまりにも多すぎるし、

音楽が流れている空間も大体は好きではない。

多分、「音楽」を好きなわけではない。

 

ああいう、耳が壊れるかと思うくらいの音を出すバンドのライブが好きなのは、

周りの雑音を全て塞いでくれるから。

轟音には隙がないから、轟音の中はとても静かで居心地が良い。

いっそ耳が聞こえなくなってしまえばいいのに、と思うことすらある。

 

そういえば、高校生くらいの頃は、家に聞きたくない音が多すぎて、

RadioheadのKid Aを毎日のように大音量で聴きながら夜を過ごしていたっけ。

 

音楽というものを主体的に聴き始めたのは、

好きな音楽だけが、私の耳を塞いで、雑音から守ってくれたから。

 

もし耳が聞こえなくなって好きな音楽が聴けなくなってしまったら、

というのは沢山の人たちが考えてきたことだろう。

私もすごく何度も考えたし、その度に恐ろしいと思っていた。

でも今になって、私は耳が完全に聞こえなくなったら幸せになれるのかもしれない、とも思う。勿論そんなことは望んでいないけど。

 

外には嫌な音が多すぎて、たまにウォークマンを忘れると泣きそうになってしまう。

音楽があるから生きている、なんてことは言えない。

NO MUSIC NO LIFEとかそういうのはとてもじゃないけど。

でも、耳を塞ぐ手段がなければ、私は本当に気が狂っていたかもしれない、と、昔を思い出す度に必ず思う。

 

 

私は音楽を愛していないから、これからもそうやって利用し続けるんだろうな、と

 

 

 

 

 

 

 

絵がどうしようもなく致命的に描けない話

 

今日、テレビで水彩画を描いている芸能人たちを見て、

ああ世の中の人たちにはこんなにも上手く絵を描ける人がいるのか、と驚いた

驚いたんだけど、よくよく考えたら私の周りの人たちにもそんな人は今まで沢山いて、

明らかに私の描けなさの方が人智を超えたレベル。

 

絵だけは本当に昔からダメダメで、やっとアンパンマンドラえもんが人並みに描けるレベルなんだけど、それすらも中学のとき友人に「目が死んでて怖い」と言われて心が折れた。

絵の中の目は、その人を表しているっていいますからね。勿論大当たり。

 

どこか(なんかnaverまとめとか)で聞いた話だけど、私レベルに絵が描けない人っていうのは、現実の物をちゃんと目で見れてないってことらしいよ。

写実的に物を捉えることがそもそもできてないから、絵になんて描けるはずがない。

目は正常だからどこにも問題なんてないように思われるんだけど、実際には脳の処理の仕方がちょっと普通の人とは違ってるらしい。

 

ここからは私の解釈なんだけど、要するに物の見え方が歪んでるってことだよね。

よく考えたら昔から、目の前にあるものを捉えるということが出来なくて苦労してた。

簡単なことなんだけど、階段を一段飛ばしにしてしまってこけたり、どんなに目を凝らしてもボールをキャッチすることができなかったり、裁縫では糸通しがないと針に糸を通すことができなかったり。

 

それで、「どうしてボールをちゃんと見れないの?」って言われたりとか、天然な人扱いされたりしたことも多かったなあ。

そのことは無意識下において、かなり私に影響を与えている気がする。

いや、それ以前に目の前のものの見方が歪んでるんだから、それが人生に影響を及ぼさないはずがないんだよな。

 

あとそれと関係があるのかないのか、私には昔から目の前で起きたことをものすごく抽象的に捉える癖もある。

過去のライブの感想とか見てもらえばわかると思うんだけど、「××が笑った」とか「××の衣装がどうだった」みたいに詳しいレポが殆どなくて、その様子から受けて私が勝手にねん出したイメージの羅列みたいな文章になっている。

それは敢えてそうしようとしたわけじゃなくて、例えば衣装のディテールとか、その人の仕草について詳しく書くことがどうしても難しいからなんだよね。

確かにちゃんと目で見てるはずなんだけど、それがどういう形をしてるかとかは、さっぱりわからない。

やっぱりこれも絵を描けないことと繋がってるんだろうな。

 

こういう感じに絵が描けない人、私の周りにも結構いるし、芸能人とかにもたまにめちゃくちゃ絵が描けない人とか見るんだけど、

抽象的な言葉の羅列で面白い文章を書ける人とか、ぼんやりとしたイメージから音楽をつくれる人とか、人に想像をさせる話(セールストークとか)が上手い人が多い気がするんだけど、気のせいかな。

ちなみに私にはそういった才能が一切ないので一つくらいほしいです...

 

絵を描ける人が昔から本当に羨ましくて、絵を描くサークルに所属してたときにも涙が出るくらいかけなかったし、中学の美術のときには「発想は面白いし努力もしてるんだけどね...」と言われて泣きの3をどうにかもらった私にとって、絵を描ける才能は昔から一番ほしいものだった。

んだけど、抽象的に物事を捉えられる能力、という見方をすれば案外悪くもないのかなと思う...活かせるところがあればの話。

 

 

なので一つくらいはどうにかこうにか見つけたいなと思いました。

 

 

あけました

 

おめでたいかどうかはともかく。

 

 

今年はとにかく本当に好き勝手に生きていきたいなーと思ってるし、

できたら今年中にささっと死ねたらいいなーとも思っている。

全く逆のことを言っているようで、全く同じ意味のこと。

 

2015年はとにかく、いろんなことに気付かされた年だった...気がする。

自分で、ふとした瞬間に気付いたこともあるし、人から言われて気付いたこともあるし、なんらかの経験を通してつくづく思い知ったこともある。

 

 

・幸せは隣の芝生が見えない(目に入っても何も感じない)こと

 

・私はきっとごくごく普通とされている社会一般の定義に沿って生きることはできるけど(無論出産以外)、そう生きていったらおそらく幸せにはなれないこと

 

・世の中には私には想像もつかないくらい、狭い日本の中ですら本当にいろんな社会やコミュニティがあって、いろんな歴史や価値観を持った人が生きているということ

 その誰もが幸せか否かはおいておいてもそれぞれの人生を送れているということ

 

・自分自身でびっくりするくらい根底の部分では人格や物事や人に対する見方がものすごく歪んでいて修復不可能であること

 それは残念ながら生まれ育った家庭環境に大きく影響されていること

 だから歪んでいない人たちの中に入って生きるのが苦痛であること

 でもそういう歪みが私自身を形作っていて、それを面白いとか魅力的だとか感じて付き合い続けてくれる奇特で物好きでありがたい人たちもいること

 

・私がこの世の中で明確に「愛している」と断言できるものは今までも、多分これからも音楽しかないこと

 

 

最後については本当に、自分で思っていた以上に自分が本当に音楽を好きで居続けてきたということに気付かされる瞬間が昨年終わりくらいに突然沢山あって、本当に本当にびっくりした。

 

勿論、嫌いな音楽・好きになれないバンドは沢山あるんだけど、逆に言えば具体的に嫌いな音楽や好きになれないバンドの数を沢山思いつけるだけ、いろいろな音楽を聴いてきたしいろいろなバンドのライブを見てきたんだろうな、とも思う。 

そういえば前々から、人からは「本当に音楽が好きな人」みたいに言われることがあった気がするんだけれど、私自身としては全く的外れな評だと思っていたから気にも留めずに流してたなあとか...(言ってくれた人すみません)

 

なんというか、昨年終わりくらいまでは、音楽は手段の一つというか、私の中で小説や映画と全く同じ括りで同じ程度の存在でしかないものだと思っていて、いや勿論、小説とか映画も好きなんですけど。

ただ、いつも心の中に巣食っているのは音楽だけなんだなあと気付いた、というか。

ぼーっとしているときも、食事をしているときも、仕事をしているときも、友達とはしゃいでいるときも、一人で泣いているときも、誰かとキスをしているときも、ずっと心のどこかに音楽があって、

よくよく考えたら、音楽を通してでしか人と親密になれない人生だった気がする。

音楽やバンドにはまったことの無い人との付き合い方が未だにわからない(ありがたいことに、大学入ってからはそういう友人もできたので視野が広がったけど)。

 

 

あーーーー、、、なんかものすごくまとまりのない文になったんだけど、

なんとなく2016年が本格的に始まる前にどこかに文章にしておきたくて。

とにかく気付いたことを大事にしながら、今年は本当に楽しく明るく自分勝手に生きて、それでもそばにいてくれる人のことだけを大切に気遣っていこうと思ってます。

 

ので、今年もよろしくしてくれる方はよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも世界が続くなら『最低の昨日はきっと死なない』によせて

 

アーティストとファンの適正距離はどこにあるのだろうか。

 

アーティストとファンの間には絶対に越えられない大きな壁がある、

とずっと考えながらCDを買い、ライブハウスに通っていた私にとって、

篠塚さんという存在はとても衝撃的で、未だに心のどこかで受け入れられずにいる。

 

僕と君は同じ人間だ

「伝える」なんて上から目線の言葉もおかしい

こんな音楽を聴きに来ないで自分のやりたいことをやれよ、好きな人に会いにいけよ

 

心から好きだと思える音楽をやっているバンドマンの言葉を、

こんなにも素直に受け止めることができないのは初めてで、篠塚さんが曲の中以外で言葉を発する度に、私はいつもびくびくしてしまう。

そんなものは綺麗事だ、と思ってしまう。

 

けれど、彼の誕生日にリリースされた新しいCDを一日中聴いている今、

疑り深い私は、やっと彼の言葉を素直に受け止められるような気がしている。

 

 

無駄ではないものすら削ぎ落して、極限までにシンプルな音と言葉だけで構成されている『最低な昨日はきっと死なない』は、

今までにそれせかが出したどの音源とも全く異なっている。

曲によってはギターロックというよりアンビエントミュージックのそれだし、

歌詞についても今まであった多少あった文学性すらも取り払われていて、

一発録りの音はとにかく生々しい。

 

何度繰り返して聞いても、極限までにシンプルな音と言葉の中には、

一片の嘘や偽りも感じることができなくて、泣くことすらできない。

 

他のCDと同じように、「アーティストによる創作物」だとは思えなくて、

「自分と同じように人生の虚しさや自分の何も無さに苦しんできた生身の人の声」

としか感じられなくて、とても戸惑っているし、辛くなってしまう。

 

 

アーティストがファンと同じ地平に立つことが良いことだとは、到底思っていない。

アーティストとファンは別次元にいるからこそ、お互いにお互いを守りながらWINWINの関係性を築くことができる、と頑なに信じている。

アーティストとファンの間にある距離は、ヱヴァンゲリオンでいうATフィルターみたいなもので、お互いの言葉や態度によって傷つけ合うことを防いでいる(と、少なくとも私はそう考えてきたし、これからもそう考える)。

 

だから、それでも世界が続くならは、きっと今までも何度も沢山のファンを傷つけてきたはずだし、これからもずっと傷つけていくのだろう。

逆に言えば、この音をヘッドホンで、ライブハウスで聴いて全く傷つかない人には、本当の意味では響かない音楽であるともいえるし、

もしかしたら、逆にファンに傷つけられることすらあるのかもしれない。

 

そんなアーティストとファンのあり方を、私はやはり良いとは思えない。

とても正直に言うと、「私と同じ目線の高さに立とうとするな!!」と思ってしまう。

でもこれはただの自意識過剰ではなくて、私にとってこのバンドやこの音楽が大切で必要で響くものである限り、それらは私と同じ高さに立とうとする。

私でなくとも、このバンドや音楽を必要とする人には誰にでもそうあろうとする。

 

 

このバンドのスタンスは嫌いだけれど、このバンドの存在や、このバンドがつくる音楽や言葉が、今まで生きてきて出会えたものの中でもとにかく大切で、

心を打たれたものであるという事実も死ぬまで変わらない。

 

多くの人の心を真に打つ音楽をつくるアーティストが、ファンと全く同じ地平に立とうとすることは、正解なのか、不正解なのか、よいのか、悪いのか。

そんなことはいくら考えても答えが出ないしわからないけれど、ただ一つ言えるのは、

「聴き手である私と全く同じ場所にいる」と、一人にでも本気で思わせられるだけで、

それでも世界が続くならは特別な価値のあるバンドであるし、

『最低な昨日はきっと死なない』も特別な価値を持つCDである、ということ。

 

 

だから、私は何度でも傷つけられるし、傷つけられることがとても嬉しい。